ベートーヴェンの第九交響曲にぎきいるとき、私たちは偉人な人間が世界の根心的叫ぶと苦闘し、きずつき、やぶれ、しかもこの苦闘をとして人間が此岸をとる悲劇的な道行きと、崇高な終末とか感じる。この楽曲をとおして私たちのなかに牛の苦しみと偉大さへの憧れの感竹かよびさまされると同時に、曲そのものに悲壮尨と崇高の美がそなわっていることを私どもは感じる。第九交響曲が壮大なのはあらためてとりあげるまでもないあたりまえのことだが、考えてみればその「あたりまえ」かまことにふしぎでもある。
私どもの耳にひびくものは、絃と管と打楽器の幾種かのくみあわせでなった物理的音響であるが、この音響に、かなしさ苦しさ、よろこばしさ大きさが内在している。ことは楽曲という作曲家の心の表現されたものでなくてもかまわない。音階を上下する簡単な旋律でもかおりはなく、長調は音のなかに積極的な快活の感情をもち、短調には受身のやわらかさと悲哀がそなわっている。
富士山という円錐形の地塊が、私どもだれがながめても「気だかく」みえるのも、気づいてみればおかしなことである。この山が気だかくみえるのは、まず第一に上へ上へと高まろうとする形からくる「偉大さ」のためであるが、それには第二の条件がなければならぬ。この山に似たものがほかにはないということである。
富士山が類型的存在でなく、唯一不二のものだということである。みずからつねに高まろうとする形の山は、富士にかぎらず日本アルプスにもいくらもあるが、しかしそれがいくつもならんで類型となっているために、この諸峰は気だかさをもたぬ。富士の場合、崇高性という点には多少消極的なところもしかしあるので、肌が理想にちかくなだらかで調和的整合的にできていることは、むしろ女性的な「優美」のかたむきをもつ。
ほんとうの崇高は偉大さという内容が調和的形式をなかからやぶっていることを、どこかに破綻をみせていることを要するものであるから。それで崇高性をもって富士を表現しようとする画家たちは、事実以上に傾斜を急にし、肌にいくすじかの深いひだをあたえ、頂上の火口の凹凸を鋭角的なぞぶれ目としたのであった。私どもはこのようにまわりのものすべてに自分のなかで生まれた感情を吹きこんで先方にあたえながら、それをもともと先方に内在したものだと感じているのである。
2012年8月1日水曜日
ビアードの分類
どのような人間たちが民主党の支持者となるのであろうか。彼らは共和党の支持者とは、何か違った特徴とでもいえるものをもっているのであろうか。アメリカの政党の支持層の違いについて、著名な歴史学者のチャールズ・ビアードは次のようにのべたことがあった。
このビアードの観察は正しいのだが、いくつかの脚注を必要とする。アメリカで富める者といえば、銀行口座の残高の大きさで表現されるような、単にお金持ちであるという状態ではない。むしろ社会的な要因がつきまとっており、ほぼ次のような背景が自動的に連想されるのである。
高等教育を受けている。白人である。社会的に高いとみなされている職業についている。肉体労働者ではない。都市の中心の高級住宅街か。郊外に住んでいる。宗教はプロテスタント(キリスト教のうちの新教)である。
貧しい者というのはこの反対側にある人物で、たいていは高等教育を受けておらず、非白人が中心になっている。白人であったとしても、肉体労働に従事している者が多く、社会的にあまり高いとはみなされない職業についている。
住居は環境の悪い都心部にあることもあるし、郊外の一角にあることもあるが、いずれにせよ狭いところに住んでいる。同じキリスト教でも、カトリック教徒は大体がこの分類に入る。
もちろんこのような分類は大ざっぱなものであって、実際にはさまざまな例外や特殊事情がからまっているが、それにしてもアメリカの政党の支持層に、ある種の社会階層の差とでもいったものがつきまとっているというのは、避け難い事実である。このような状況は、ミシガン大学がおこなった一九四八年から六〇年にかけての調査でも明らかとなっている。
アメリカのなかの富める者が引きつけられる重心点は、共和党にある。反対に貧しい者が引きつけられる垂心点は、民主党にある。
このビアードの観察は正しいのだが、いくつかの脚注を必要とする。アメリカで富める者といえば、銀行口座の残高の大きさで表現されるような、単にお金持ちであるという状態ではない。むしろ社会的な要因がつきまとっており、ほぼ次のような背景が自動的に連想されるのである。
高等教育を受けている。白人である。社会的に高いとみなされている職業についている。肉体労働者ではない。都市の中心の高級住宅街か。郊外に住んでいる。宗教はプロテスタント(キリスト教のうちの新教)である。
貧しい者というのはこの反対側にある人物で、たいていは高等教育を受けておらず、非白人が中心になっている。白人であったとしても、肉体労働に従事している者が多く、社会的にあまり高いとはみなされない職業についている。
住居は環境の悪い都心部にあることもあるし、郊外の一角にあることもあるが、いずれにせよ狭いところに住んでいる。同じキリスト教でも、カトリック教徒は大体がこの分類に入る。
もちろんこのような分類は大ざっぱなものであって、実際にはさまざまな例外や特殊事情がからまっているが、それにしてもアメリカの政党の支持層に、ある種の社会階層の差とでもいったものがつきまとっているというのは、避け難い事実である。このような状況は、ミシガン大学がおこなった一九四八年から六〇年にかけての調査でも明らかとなっている。
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