2013年8月28日水曜日

行政は余計な手出しをしなくていい

一九四五年四月、米軍は読谷に上陸すると破竹の勢いで進軍し、コザの近辺に捕虜収容所をつくり、この一帯を「キャンプコザ」と呼んだ。やがて人目が急増し、戦後の復興が進むにつれて、基地周辺に兵隊相手の「特飲街」ができた。五八年からコザ市長に就任し、現在の沖縄市の基礎をつくったのが大山朝常氏だが、亡くなる二年前(九七年)にお会いしたとき、こんなことを語っていた。「あのときの村長は、村を荒らされちゃ困るというんで、今の市民会館あたりに裏町というのをつくって、そこに売春婦を置いたんです。そりゃ、アメリカの兵隊はいっぱい寄ってきましたよ。女一人で十何人もナニするもんだから、ドルがおもしろいように集まって、みんなドラム缶に詰めておりましたなあ」

コザがもっとも注目されたのはベトナム戦争がはじまってからだろう。占領軍によってロックンロールという外来音楽がもたらされると、ウチナーンチュはまたたく間にこれを学びとってしまう。一四世紀頃に中国から渡来した三線を、沖縄独自の民族楽器に改良していったのと同じように、ロックに沖縄的要素をミックスさせながら、独自の「沖縄ロック」に仕上げていった。とりわけロックは、誰からも束縛されない音楽という意味で、沖縄戦で多くの命を失い、戦後は米軍に占領されっづけた沖縄民衆の心情にぴったりと重なった。そして、六〇年代半ばからベトナム戦争が本格化し、「ベトナム特需景気」がやってくると、「沖縄ロック」が一気に開花する。

『戦後コザにおける民衆生活と音楽文化』(拵樹書林)には、次のように書かれている。〈ベトナム戦争で殺気立っている米兵たちは、沖縄ロッカーたちの演奏に満足できない場合、ステージの演奏者をめがけてビール瓶を投げっけたりした。戦争一色に染まっている喧噪と殺伐の中、ロッカー達は、命がけで演奏してきたのである〉バンドメンバーは離合集散を繰り返し、一九七〇年代には沖縄三大ロックバンドである「キャナビス」「コンディショングリーン」「紫」が誕生し、一気に脚光を浴びて黄金期を迎えた。ところが、かつて沖縄第二の町と言われたコザも、北谷町に「アメリカンビレッジ」ができてから観光客も住民もめっきり減った。胡屋周辺のさびれようは尋常ではなく、通りから買い物客が絶え、店は次々とシヤッターを下ろし、昔のように酔客の騒ぐ声も聞こえなくなった。

さて、ここから本題なのだが、今も胡屋十字路を中心に、沖縄ロックや沖縄民謡をはじめ、さまざまなライブハウスが点在している。この小さな町に、これほどライブハウスがあるだけでも珍しく、これが、「音楽の町コザ」と呼ばれるゆえんである。そこで沖縄市は、音楽によって町おこしをしようと「ミュージックタウン構想」を打ち立てた。それ自体は間違ってはいなかったように思う。ライブハウスだらけのこんな町はちょっとやそっとではできない。これを活かすべきだろう。ところが、役所は沖縄市随一の繁華街・胡屋十字路の角に「ミュンツクタウン音市場」という、音楽ホールをつくったのである。それも黄色くてデカいだけでなんの魅力もない建物だ。

私か夢見たのは、ホテルを出てふらっと歩きながらワンショツトバーで軽く引っかけ、酪酎しながら小さなライブハウスを何軒かハシゴする。そんな町だった。個人的な理想だが、そんな町なら観光客もきっと注目するはずだ。文化とは住民の内側から湧き出るものであり、行政はその手助けをするだけでよかった。音楽ホールなどつくってしまえば、文化の担い手であるライブハウスを潰すことにもなりかねない。最初から土木建築ありきではじまったから、ハコモノをつくる以外になかったのだろう。相変わらず胡屋周辺の人通りはまばらである。