2013年11月5日火曜日

インド・ブータン友好条約をめぐって

この問題解決のための交渉が続いているが、ネパールの政情不安定もあって、あまり進展が見られない。必ずしも真相を正しく把握せず、一部ネパール人の偏った情報に基づく国際世論・メディアから批判されつつも、この移民問題をブータンの安全・存亡にとっての最大の危険と認識し、終始断固とした政策を貫いたのは、第四代国王であった。そして以後政府は、現在の「難民問題」は、一時的な問題にすぎず、人口六〇万人ほどのブータンにとっては、各々人口一一億人、二五〇〇万人でブータンの二〇〇〇倍、四〇倍近くの人口を有する陸続きのインド、ネパールからの移民は、ブータンにとっての国の安全という観点からは、絶えず潜在的な最大の脅威であるという認識を持ち、長期的な対策を講じている。

次には、ブータン南部に立て龍つていたインドのアッサム分離派ゲリラ一掃のための二〇〇三年末の軍事作戦がある。実はその一〇年近く前から、アッサム分離運動を展開するインド人ゲリラ部隊は、インド軍に追い込まれ、国境を越えてブータン南部の密林地帯に拠点を移していた。そして、そこからインド領内に出向きテロ攻撃を続けていた。ブータン政府は、ゲリラ部隊にたいして自発的に撤去するよう再三にわたって勧告したが、ゲリラ部隊は応じなかった。これは、ブータンにとって自国の安全を脅かす深刻な事態であると同時に、ブータンは隣の友好国インドに対して微妙な立場に立たされた。この事態が長引き、インド領内でのテロ活動が組織化し激化すると、インド政府は、ブータン政府はアッサム分離派ゲリラを擁護しており。

これは敵対行為であると批判するようになった。これを受けてブータンとしてもこの事態を収拾せざるをえなくなり、二〇〇三年秋にブータン国会は、最後の手段としてゲリラ部隊を軍事行動により国外退去させることを決議した。その結果、ブータン軍はゲリラ部隊一掃作戦を実施することになった。この時誰もが驚いたのは、政府首脳、閣僚、軍総司令官はじめ中央政府は首都ティンプに残ったまま、国王が国民義勇隊の一人として加わった王子一人を伴って、陣頭指揮に出かけたことである。一九九八年来、国王はすでに政府首脳ではなかったが、国の独立・安全の保守は国家元首であり、ブータン軍の大元帥である国王の任務であったからである。

この作戦はブータンにとって、一九世紀末にインドを支配していたイギリス軍と南部で戦って以来、一世紀余ぶりの戦闘行為であった。この時の戦いでは、初代国王の父ジクメーナムギェルが、自ら火縄銃でイギリス人指揮官の頭を射抜いたと言い伝えられている。この先例を思うと、矢面に立っての陣頭指揮というのはブータン王家に流れる血なのかもしれない。いずれにせよ、名は体を表わすと言われるように、第四代ブータン国王ジクメーセングーワンチュッグは、まさに「怯えることがない(ジクメ)、力強い(ワンチュック)ライオン(セング)」である。数日間にわたった作戦中、一時は国王(あるいは王子)負傷の噂が流れ、国民の誰もが不安に陥り、国王の無事とブータンの勝利を祈願した。結果は、ブータン軍の電撃的勝利に終わり、ゲリラ部隊は一掃された。

これにより、インドとの関係は修復され、南部の治安も回復された。しかしながら、インド国内におけるアッサム分離派ゲリラ活動は今でも続いており、かれらが再びブータン南部に進入し、そこを活動拠点とする危険性はあり、緊張が続いている。そして最後が、一九四九年のインドーブータン条約を改正して二〇〇七年二月に署名されたインドーブータン友好条約である。署名したのは即位後間もない第五代国王であるが、これこそは、第四代国王の一代の治世を通じての悲願であり、今述べたゲリラ部隊一掃の電撃的な軍事作戦による勝利とは好対照に、長年の忍耐強い交渉による外交上の勝利であり、最大の功績であろう。この条約の歴史的重要性を理解するのには、四世紀ほど歴史を遡らねばならない。