2016年4月9日土曜日

ニユーモント社とミナハサ県政府との対立

こうした動きは全国各地にみられるが、北スラウェシ州ミナハサ県で操業する外資系金鉱会社ニユーモント社とミナハサ県政府との対立は、そのひとつの事例である。ミナハサ県知事は、一九九八年県政令第七号で定めた「C種鉱物資源土砂等採取・加工税」の県政府への支払いをニューモント社が拒否したとして、同県のトンダノ地方裁判所に同社を提訴した。県政府は、砂金を含む土砂を販売しているニューモント社に課税しようとしたのである。このほか、ニューモント社は「地上水・地下水税」も県政府に支払っていないと批判されている。ミナハサ県議会も全会一致で県知事による提訴を支持した。

これに対して、ニューモント社は以下のように反論した。同社の操業は中央政府との「事業契約」としての協定に基づいており、生産した金鉱の生産分与もそれに従って決められている。その契約のなかには「C種鉱物資源土砂等採取・加工税」に関する記述はない。したがって同税を支払う義務はない、という主張である。トンダノ地裁は二〇〇〇年一月二二日、ミナハサ県知事の主張を全面的に認め、ニューモント社にC種鉱物資源土砂等採取・加工税の支払いを命じるとともに、それを拒否した場合には操業停止を命じるという判決を下した。州都マナドの高裁もこれを認め、この判決が執行されることになった。

北スラウェシ州の農業生産の中心地であり、比較的農民が豊かなミナ判決の後の展開 ハサ県でも、県政府の自己資金収入は予算全体のわずか五%にすぎない。かつてはコプラからの課徴金収入が期待できた。しかし、一九九七年法律一八号(地方税・地方課徴金法)によって、地方政府の徴収できる地方税・課徴金の種類が厳しく制限されると、ミナハサ県政府の財政収入は大幅に減少した。県内で利益を上げているニューモント社からの税収は、喉から手が出るほど欲しい財源だったのである。

2016年3月9日水曜日

法律の変化が激しかったアメリカ社会

手続や制度を変えていくといっても、それには何かきっかけがないと無理です。その意味で、裁判は現状変革の起爆剤になるものです。特に、国や大企業、それらに属するエリート層などを相手取る民事訴訟は、そういう可能性を秘めています。問題が生じて、なんだかんだと議論して、何とかしなくてはいけないからと法律が変わったり、制度が変わったりします。

そして少しずつ物事が変わってゆく。昔から法律の変化が激しかったのがアメリカです。日本は最近になってカタカタし始めましたが、アメリカは昔から何度もこういうことをくり返してきました。「訴訟社会」などという悪口かおる一方で、プラスの面に着眼すれば、ディベートがさかんで、議論の究極の姿が裁判になる、いわば裁判が利用しやすい社会だとも言えるのです。

裁判を徹底的にやる方が利害対立は明確になります。裁判で議論しているうちに争点がはっきりとしてきます。証拠をお互いに出し合っての争いですから、いい加減な水掛け論とは違います。具体的な事件を素材にして問題を考えるわけですから、抽象的な議論でもありません。

そうするうちにマスコミが注目して、これは問題だということがやっと分かって、「なんとかしなければ収まらないな」ということになります。問題の所在をはっきりさせるには、徹底的に議論するのが一番分かりやすいのです。

とくに、アメリカでは陪審制のおかげて、法廷の議論は一般の人にも分かりやすくすることが必要です。弁護士も裁判官も、陪審員に分かりやすいプレゼンテーションをするにはどうしたらいいかという観点から徹底的に訓練し、堂々と議論します。それによって問題の所在もはっきりとします。

2016年2月9日火曜日

多角的な洪水対策へ

やみくもにダムをつくり続ける日本とくらべれば、劇的な変化である。米国のダムを建設する三大組織のうちでも、独立戦争時代からの伝統がある陸軍工兵隊が大規模ダムの建設に背を向けたのである。

しかし、工兵隊の変化は突然に起こったわけではない。変化のもとをたどれば、ダムや堤防では大規模な洪水に対処できないことに気づいたことであり、それは一九五〇年代の米国のダム・堤防の建設ラブソユ時代にまでさかのぼる。工兵隊は一九五三年に、洪水のときに堤防からあふれた水が流れこむ湿原を遊水池として利用しはしめた。一九六六年になると、遊水池の拡大や組織的利用を中心に、ダムや堤防のような構造物だけにたよらない「非構造的」洪水対策に乗り出していたのである。

こうした手法の転換を決定的にしたのが、一九九三年に起きたミシシッピー川とミズーリ川の氾濫だった。この洪水は、中西部の九つの州に被害を及ぼした。自然は、人工物では制御できず、洪水を予想して多角的な対策をたてるのが最善の手法だと確認された。

それ以前の一九八〇年代後半から、工兵隊の大規模なダムの新規着工はなくなっている。そして、護岸工事も減り、逆に過去の「改修工事」によるコンクリートをはがしたり、河川の直線化と堤防化で無視されていた遊水池を復活させるなど、環境回復のための支出がふえていた。こうした工兵隊の新方針の見本が、世界でも最大級のフロリダ州の大湖沼地帯エバーグレーズに流れ込むキシミー川で見られる。

2016年1月12日火曜日

米・韓・朝各首脳の「計算」

金大中大統領と金正日総書記は二〇〇〇年六月、歴史的な首脳会談を実現した。南北朝鮮の指導者同士の会談は、史上初めてであった。首脳会談は、一九七二年以来南北の指導者が密かに、時には公の演説を通じ、何度となく提案したが成功しなかった。

なぜ、南北朝鮮の首脳会談は二〇〇〇年まで実現できなかったのかについては、終章で詳しく説明したい。南北首脳会談は、日本のマスコミでもその「成功」が大きく報じられた。

だが、南北の指導者が「すぐにも統一を実現したい」との思いを一つにしていたわけではない。金大中大統領と金正日総書記の思いは「同床異夢」の状態にあった。

それでは、両首脳の思いと目的は何であったのか。それが明らかになったのは、首脳会談から四ヵ月が過ぎた二〇〇〇年の一〇月であった。

一〇月に何がめったのか。まず、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の趙明禄・国防委員会第一副委員長がアメリカを訪問し、クリントン大統領に北朝鮮訪問を希望する金正日総書記のメッセージを伝えた。

北朝鮮外交の最大の目標は、アメリカとの平和協定締結と国交正常化であった。その目的に、大きく近づいたように見えた。

北朝鮮は、一九七〇年代以来アメリカとの平和協定締結、国交正常化実現のために、多くの努力を傾けた。韓国を排除した、米朝両国だけの平和協定締結が、北朝鮮外交の最大の目標だった。


そしてたどり着いた結論は、南北首脳会談を実現し金大中大統領にクリントン大統領への説得を頼むことであった。金大中大統領は、日米の首脳に金正日総書記との直接会談を勧めた。

これは、北朝鮮としては「ソウルを通じてワシントンに至る」戦略の採用でめった。一方、韓国の金大中大統領は二〇〇〇年一〇月にノーベル平和賞を受賞することが決まった。ノーベル賞受賞のために金大中大統領は南北首脳会談を必要としたのだった。