2013年12月25日水曜日

第二の創業を目指す

銀行を監督する金融庁(2000年7月までは金融監督庁)は1998年に住友信託銀行に対して、破綻の淵にあった旧長銀との合併を迫ったことがありましたが、現在は金融システムが安定しているため、新生銀行とあおぞら銀行の合併破談を静観しました。M&Aの過程では、最初は社長同士の信頼関係から、M&Aの話か生まれて、最高機密として話が進められることが多くなっています。M&Aで主要ポストを失う可能性が高い役員など社内からも反対が出る可能性がありますし、マスコミヘリークされるリスクもあります。2006年の王子製紙による北越製紙に対する敵対的買収の試みの際に、王子製紙のライバルの日本製紙が北越製紙の株式を取得して、王子製紙による北越製紙へのTOBを阻止したように、M&Aに対してライバル企業による邪魔が入ることもあります。

多額の資金を投人するM&Aでは、対象会社との信頼関係の構築、アドバイスする証券会社や弁護士との綿密な打ち合わせ、関係当局への根回しなど、慎重かつ綿密な計画が必要です。そうしないと、多額の資金を注ぎ込むM&Aが水泡に帰する可能性があります。M&Aを行う理由は様々ですが、①企業規模やシェア拡大、②外部成長の取り込み、③新規事業分野への参入、④グローバル展開、⑤人材確保、⑥過剰設備や経費の削減、⑦研究開発費や製品開発費の削減、⑧ブランドなどの無形資産の入手、⑨経営難に陥った会社の再生などがあげられます。これらの意義を、以下に順番に述べます。

①の企業規模やシェア拡大については、多くの企業経営者は小さい企業より大きな企業の経営を望むでしょう。企業が大きいほど、位の高い勲章をもらいやすいという理由で、M&Aを目指す老齢経営者もいるようです。世界的な企業間競争が厳しくなり、規模の経済が世界規模で働くようになってきました。日本企業の規模は1980年代後半のバブル期には大きかったのですが、その後株式市場が長期低迷したこと、欧米企業が国際的なM&Aを積極的に行ったこと、新興国企業が急成長したことから、日本企業の株式時価総額や収益で見た規模は、国際比較で見劣りするようになってきました。

金融機関の場合、政府が『(大きすぎて潰せない)の原則に基づいて、倒産した場合の経済全体に与える影響が大きい金融機関を支援することが多いので、銀行同士が合併して大きくなれば、政府の支援を受けやすくなります。②の外部成長の取り込みや、③の新規事業分野への参入については、企業が内部の経営資源だけで成長できるうちは、M&Aを必要としませんが、企業の成長が成熟してくると、M&Aで外部の企業の成長を取り込む必要が出てきます。富士フイルムホールディングスは、デジカメ時代を迎えて、写真フイルム事業が急速に縮小したため、2008年3月に富山化学を買収して、医療事業の強化を目指しました。

社名からも「写真」を削除して、第二の創業を目指しました。富士フイルムはまだ事業再構築の過程にありますが、M&Aが業態変更に有効な手段であることを示す事例です。④のグローバル展開については、トヨタ自動車のように、圧倒的な製品力と自ら構築した販売網で、世界中の市場を開拓できる企業にM&Aは必要ないでしょうが、海外市場の開拓には時間がかかるため、現地の販売網や政府との良好な関係を持った外国企業を買収したほうが、海外事業展開がスムーズに進展することが多くあります。⑤の人材確保目的のM&Aには、野村ホール元インダスによるリーマン・ブラザーズの欧州・アジア部門買収などが入りますが、人が命の証券会社にあって、海外買収先の社員と日本人社員の間で異なる給与体系の取り扱いに苦労したようです。

2013年11月5日火曜日

インド・ブータン友好条約をめぐって

この問題解決のための交渉が続いているが、ネパールの政情不安定もあって、あまり進展が見られない。必ずしも真相を正しく把握せず、一部ネパール人の偏った情報に基づく国際世論・メディアから批判されつつも、この移民問題をブータンの安全・存亡にとっての最大の危険と認識し、終始断固とした政策を貫いたのは、第四代国王であった。そして以後政府は、現在の「難民問題」は、一時的な問題にすぎず、人口六〇万人ほどのブータンにとっては、各々人口一一億人、二五〇〇万人でブータンの二〇〇〇倍、四〇倍近くの人口を有する陸続きのインド、ネパールからの移民は、ブータンにとっての国の安全という観点からは、絶えず潜在的な最大の脅威であるという認識を持ち、長期的な対策を講じている。

次には、ブータン南部に立て龍つていたインドのアッサム分離派ゲリラ一掃のための二〇〇三年末の軍事作戦がある。実はその一〇年近く前から、アッサム分離運動を展開するインド人ゲリラ部隊は、インド軍に追い込まれ、国境を越えてブータン南部の密林地帯に拠点を移していた。そして、そこからインド領内に出向きテロ攻撃を続けていた。ブータン政府は、ゲリラ部隊にたいして自発的に撤去するよう再三にわたって勧告したが、ゲリラ部隊は応じなかった。これは、ブータンにとって自国の安全を脅かす深刻な事態であると同時に、ブータンは隣の友好国インドに対して微妙な立場に立たされた。この事態が長引き、インド領内でのテロ活動が組織化し激化すると、インド政府は、ブータン政府はアッサム分離派ゲリラを擁護しており。

これは敵対行為であると批判するようになった。これを受けてブータンとしてもこの事態を収拾せざるをえなくなり、二〇〇三年秋にブータン国会は、最後の手段としてゲリラ部隊を軍事行動により国外退去させることを決議した。その結果、ブータン軍はゲリラ部隊一掃作戦を実施することになった。この時誰もが驚いたのは、政府首脳、閣僚、軍総司令官はじめ中央政府は首都ティンプに残ったまま、国王が国民義勇隊の一人として加わった王子一人を伴って、陣頭指揮に出かけたことである。一九九八年来、国王はすでに政府首脳ではなかったが、国の独立・安全の保守は国家元首であり、ブータン軍の大元帥である国王の任務であったからである。

この作戦はブータンにとって、一九世紀末にインドを支配していたイギリス軍と南部で戦って以来、一世紀余ぶりの戦闘行為であった。この時の戦いでは、初代国王の父ジクメーナムギェルが、自ら火縄銃でイギリス人指揮官の頭を射抜いたと言い伝えられている。この先例を思うと、矢面に立っての陣頭指揮というのはブータン王家に流れる血なのかもしれない。いずれにせよ、名は体を表わすと言われるように、第四代ブータン国王ジクメーセングーワンチュッグは、まさに「怯えることがない(ジクメ)、力強い(ワンチュック)ライオン(セング)」である。数日間にわたった作戦中、一時は国王(あるいは王子)負傷の噂が流れ、国民の誰もが不安に陥り、国王の無事とブータンの勝利を祈願した。結果は、ブータン軍の電撃的勝利に終わり、ゲリラ部隊は一掃された。

これにより、インドとの関係は修復され、南部の治安も回復された。しかしながら、インド国内におけるアッサム分離派ゲリラ活動は今でも続いており、かれらが再びブータン南部に進入し、そこを活動拠点とする危険性はあり、緊張が続いている。そして最後が、一九四九年のインドーブータン条約を改正して二〇〇七年二月に署名されたインドーブータン友好条約である。署名したのは即位後間もない第五代国王であるが、これこそは、第四代国王の一代の治世を通じての悲願であり、今述べたゲリラ部隊一掃の電撃的な軍事作戦による勝利とは好対照に、長年の忍耐強い交渉による外交上の勝利であり、最大の功績であろう。この条約の歴史的重要性を理解するのには、四世紀ほど歴史を遡らねばならない。


2013年8月28日水曜日

行政は余計な手出しをしなくていい

一九四五年四月、米軍は読谷に上陸すると破竹の勢いで進軍し、コザの近辺に捕虜収容所をつくり、この一帯を「キャンプコザ」と呼んだ。やがて人目が急増し、戦後の復興が進むにつれて、基地周辺に兵隊相手の「特飲街」ができた。五八年からコザ市長に就任し、現在の沖縄市の基礎をつくったのが大山朝常氏だが、亡くなる二年前(九七年)にお会いしたとき、こんなことを語っていた。「あのときの村長は、村を荒らされちゃ困るというんで、今の市民会館あたりに裏町というのをつくって、そこに売春婦を置いたんです。そりゃ、アメリカの兵隊はいっぱい寄ってきましたよ。女一人で十何人もナニするもんだから、ドルがおもしろいように集まって、みんなドラム缶に詰めておりましたなあ」

コザがもっとも注目されたのはベトナム戦争がはじまってからだろう。占領軍によってロックンロールという外来音楽がもたらされると、ウチナーンチュはまたたく間にこれを学びとってしまう。一四世紀頃に中国から渡来した三線を、沖縄独自の民族楽器に改良していったのと同じように、ロックに沖縄的要素をミックスさせながら、独自の「沖縄ロック」に仕上げていった。とりわけロックは、誰からも束縛されない音楽という意味で、沖縄戦で多くの命を失い、戦後は米軍に占領されっづけた沖縄民衆の心情にぴったりと重なった。そして、六〇年代半ばからベトナム戦争が本格化し、「ベトナム特需景気」がやってくると、「沖縄ロック」が一気に開花する。

『戦後コザにおける民衆生活と音楽文化』(拵樹書林)には、次のように書かれている。〈ベトナム戦争で殺気立っている米兵たちは、沖縄ロッカーたちの演奏に満足できない場合、ステージの演奏者をめがけてビール瓶を投げっけたりした。戦争一色に染まっている喧噪と殺伐の中、ロッカー達は、命がけで演奏してきたのである〉バンドメンバーは離合集散を繰り返し、一九七〇年代には沖縄三大ロックバンドである「キャナビス」「コンディショングリーン」「紫」が誕生し、一気に脚光を浴びて黄金期を迎えた。ところが、かつて沖縄第二の町と言われたコザも、北谷町に「アメリカンビレッジ」ができてから観光客も住民もめっきり減った。胡屋周辺のさびれようは尋常ではなく、通りから買い物客が絶え、店は次々とシヤッターを下ろし、昔のように酔客の騒ぐ声も聞こえなくなった。

さて、ここから本題なのだが、今も胡屋十字路を中心に、沖縄ロックや沖縄民謡をはじめ、さまざまなライブハウスが点在している。この小さな町に、これほどライブハウスがあるだけでも珍しく、これが、「音楽の町コザ」と呼ばれるゆえんである。そこで沖縄市は、音楽によって町おこしをしようと「ミュージックタウン構想」を打ち立てた。それ自体は間違ってはいなかったように思う。ライブハウスだらけのこんな町はちょっとやそっとではできない。これを活かすべきだろう。ところが、役所は沖縄市随一の繁華街・胡屋十字路の角に「ミュンツクタウン音市場」という、音楽ホールをつくったのである。それも黄色くてデカいだけでなんの魅力もない建物だ。

私か夢見たのは、ホテルを出てふらっと歩きながらワンショツトバーで軽く引っかけ、酪酎しながら小さなライブハウスを何軒かハシゴする。そんな町だった。個人的な理想だが、そんな町なら観光客もきっと注目するはずだ。文化とは住民の内側から湧き出るものであり、行政はその手助けをするだけでよかった。音楽ホールなどつくってしまえば、文化の担い手であるライブハウスを潰すことにもなりかねない。最初から土木建築ありきではじまったから、ハコモノをつくる以外になかったのだろう。相変わらず胡屋周辺の人通りはまばらである。

2013年7月4日木曜日

世界各国の国際観光収入の比較

正確には政府は、「〇〇年までに外国人観光客○千万人達成」というような目標は掲げていますし、今般の世界同時不況さえなければ、一〇年度に一千万人という目標は確実に達成されていました。でもいい機会ですので、同じく政府の目標になっている「××年までに外国人による国内での消費×兆円達成」にもっと注目せねばなりません。そうしないと、イベントか何か、とにかく人数だけ容易に増やせるような策に走るのが現場の人情です。人数は増やさずとも、滞在日数や消費単価を上げて最終消費額を増やすことが重要なのです。「そんな堅いことを言わずに、人数だって目標にしていていいのではないか?」と言われそうですが、一日だけのイベントをやるとかトランシット客(外国から外国に移動する間に空港で乗り継ぐ客)に短時間だけ観光させるとか、人数だけを増やす策の方が滞在日数や消費単価を増やすよりも簡単です。

そういう逃げ道を最初から用意しているのでは、楽な方策ばかりが取られまして経済効果が増えません。逆に言えば、「外国人による国内での消費×兆円」という目標を強調すれば、人数拡大も自ずと手段の一つとして追求されますから、問題はありません。先ほどの、「生産性上昇ではなく付加価値額上昇」、「経済成長率上昇ではなく国内での個人消費の拡大」というのと同じです。ところで現状の金額を申し上げますと、ビジネス客含む訪日外国人の国内消費額(=国際観光収入)は〇八年で一兆円程度。日本製品の輸出七七兆円、国内小売販売額一三五兆円に比べればずいぷんと小さいですね。それでも〇一年当時の四千億円からは倍以上に増えました。政府のやることは何だかいつでも条件反射で批判的に言われがちですが、この分野では政府が旗を振ったビジットージャパンーキャンペーンの効果が明確に出ています。皆さんにももっと褒めていただきたいところです。

これが今後どの程度まで伸びるかということですが、世界各国の国際観光収入を比較しますと、日本はこれでも絶対額で二八位です。人口当たりに直せば世界の国々の中でも相当の下位になってしまいます。人口が日本の二五分の一のシンガポールでも日本と同等の一兆円程度はありますし、人口二千万人と日本の六分の一以下のオーストラリアや、トルコが二兆円。中国やイタリアが四兆円。世界最大手のアメリカが一一兆円ごですから、逆に前向きに言えば、日本にもまだまだ数兆円の伸びしろはあります。それどころか、中国人の一人当たり海外旅行支出は最近急成長しているとはいえまだ日本の一〇分の一ですので、これが日本の半分の水準に達するだけで単純計算の上では一八兆円の国際観光市場が新たに生まれます。真横で需要の大爆発が起きているのですから、それを取り込むことがどれほど大事か、ご理解いただけるものと思います。

短期の周遊ではなく滞在へ、そして短期定住へ、客単価を増大させる方向を促進することで、この数兆円の増加は必ず達成できます。とはいっても数兆円程度の話では、生産年齢人口減少に伴う消費の低下に対して焼け石に水ではないか、とお感じの方もいらっしやいましょう。確かに、高齢富裕層から若者への所得移転は一四〇〇兆円の個人金融資産を念頭に置いていますから話が大きかったですし、女性就労の促進も団塊世代の退職を補う数百万人の新規就業者を日本に生もうというのですから極めてインパクトが大きい話でした。それらに比べると伊肘小粒の話を始めたものだと言われても、余り文句は言えません。

ですが観光収入の多くは人件費に回りますので、輸入原材料を加工して売っている輸出製造業や、薄利多売の小売業一般に比べて付加価値率は高くなります。観光庁の発表した試算から割り算して出した数字ですが、観光売上が一兆円あれば、五千億円が付加価値としてGDPに算入され(つまり付加価値率五〇%)、九万人の雇用と八五〇億円の税収が生まれます。以上は直接効果ですが、間接効果を含めますと、観光売上一兆円から生まれるGDPは一三兆円。雇用が一九万人、税収が二二〇〇億円だそうです。つまり数兆円の観光収入増加は、日本経済にとって決してばかになりません。

日本に残された人材のロケット

実際問題、「男は仕事、女は家庭」という生活スタイルは、高度成長期以前の、国民の多くが農民か商人か職人であった時代には、単なるスローガンであって現実ではありませんでした。そうした家業の世界では奥さんもほとんどが旦那さんと一緒に働いていたからです。零細農民の場合には旦那が炊事の分担も子供の相手もしていましたし、零細な漁師であれば夫婦で船に乗っていました(これは今でもそうですが)。商家であれば旦那が行商に出ておかみさんが差配をするのがごく当たり前のことでしたし、武士にしても下級武士であれば夫婦で内職も畑仕事もしていました。

そうした伝統を忘れ、女性を家の中に無職で閉じ込め始めたのはいつからなのでしょう。生産年齢人口が激増する中で、彼らの多くを企業が戦士として吸収した高度成長期以降のことなのです。女性の結婚退職を勧奨したのは、どんどん学校を卒業してくる若い男性のために席を空けさせなければならないという経済的な要請があったからでした。でももう十分です。出生率は激しく低下しましたし、新卒学生が年々減り始めた一九九七年以降は、逆に定年退職者が新卒就職者を上回り続けています。よく「俺は仕事をしてるんだ、家庭はお前が守れ」と威張る男の姿がドラマなどに出てきたものですが、今の日本に本当に大事なのは、仕事と称して縮小する市場相手に死に物狂いの廉価大量生産販売で挑むことではなく、家庭を大事にして再び子供が生まれやすい社会にすることでしょう。

その重要な責務を、女だけに担わせて男は担わないというのは、時代錯誤も甚だしい。仕事が大事で家庭が後回しというのは、今世紀の日本ではもはや社会悪のレベルに達した考え方です。ここらあたりで歯車を逆に回し、企業戦士の家庭を専業主婦に守らせるという戦後日本に特殊な生活習慣をやめてはいかがでしょうか。ここまで申し上げてきても、日本で女性の就労を進めるには、さらに三つの壁があります。それは、①男の側の心の壁(「自分は女ではない、男である」ということを誇りに思うように釈けられてきた一部男性の「人格形成不全」)、②女の側の心00壁(女が頑張ると女が足を引っ張るというさみしい現象)、そして心ではなく③現実の壁(働く女性の代わりに家事を誰が分担するのか)、の三つです。心の問題に関しては、若者への教育を改善しつつ世代交代を待つしかないともいえますが、最後の問題については、明らかに心強い援軍が存在します。企業社会から退場しつつある高齢男性です。彼らが社会人として蓄積してきた能力と手際を持って、若い女性の代わりに家事に当たれば、その分彼女たちは所得を得て経済を拡大することができ、高齢男性の側も家族の賞賛を得ることができます。

日本に残された人材のロケットの三段目、未就労女性に点火するためにも、ぜひ一段目のロケットだった団塊世代にもうI踏ん張り果たしていただきたいものと、切に願っています。ではどうすればいいのか③労働者ではなく外国人観光客・短期定住客の受入を最後に第三の策としてお話しするのが、訪日外国人観光客・短期定住客の増加です。「外国人労働者」の導入ではなく、「外国人観光客」の増加。これは、日本経済のボトルネック=生産年齢人口の減少が、経済学が想定するような労働力の減少ではなくて消費者の減少、生産力の減退ではなくて内需の減退という問題を生んでいる、という現実の観察から当然に導き出される戦略です。生産者ではなく消費者を外国から呼んで来ようということです。

高付加価値率で経済に貢献する観光収入内需拡大のために公共投資をせよ、給付金を配れと、いろいろな声があります。ですが、外国人観光客を増やし、その滞在日数を増やし(できれば短期定住してもらい)、その消費単価を増やし、国内‐でできるだけ多くのお金を使ってもらうということほど、副作用なく効率の良い内需拡大策は他には見当たらないのではないでしょうか。輸出だけによる経済活性化が行き詰まったこの日本で、外国人相手の集客交流促進による「内需拡大」が国や経済界の戦略の一丁目一番地に来ていないようにも見えるということ自体、不可解というか情けないというか、後世のもの笑いの種になることは間違いないと感じております。





2013年3月30日土曜日

オートフォーカスレンズの出現

あわててカメラを構えましたが、暗くて先のほうは何も見えません。ピュツと投げた竿を持ち上げると、鈷の先に十五センチくらいの赤蛙がついています。その後も次々と狙いを定めるのですが、どこに蛙がいるのかまったく見えません。仕方がないので、投げだ瞬間にストロボを焚いて何枚か撮りました。写真は現像してみなければわかりませんが、鈷は百発百中で蛙を捕らえていました。帰国してフィルムを現像してみると、投げられた鈷の三十センチくらい先に、眼を光らせた蛙がはっきりと写っていました。タイの田んぼで考えられない視力を持った人に出会ったことから、中学生時代の不思議な体験を思い出したわけです。

どうだい、この写真を撮る上で視力が大切なことは言うまでもありませんが、カメラのレンズにたとえて言えば、数ある人間の中には、ひと絞り以上の明るさを持つ、暗い場所でも人一倍目の利く人がいても不思議はありません。健康診断を受けた七き、血圧やコレステロールの数値については医者からあれこれ教育的指導を受けても、視力については何も言われないのはなぜでしょう。視力が落ちてきているのでテレビを見るのを控えましょうとか、本を読んで目の運動不足を補ってください、なんてことがあってもいいように思うのですが。それに、明暗に対する個人差も知りたいものです。

写真を撮る上では「動体視力」も重要です。特にスポーツ写真、中でもサッカーやラグビーのように、カメラの位置から前後左右に大きく動く被写体は、ファインダーの中にボールを捉えつづけながらピントを合わせ。、プレーの要所を予測しながらシャッターを切らなければなりません。目の前のプレーから四、五十メートル先のプレーまで、緩急をつけたスピードで走り回る様を望遠レンズで追いかけるのです。アップになるほど臨場感も迫力も出ますが、長いレンズほどピント合わせがむずかしくなります。

スポーツ専門のカメラマンは、ほとんどがオートフォーカスの望遠レンズを使っていますが、いまや被写体の先の動きまで読む、動体予測ができるカメラさえ出現しています。被写体を連続して追っかけていると、そのスピードを自動的に計算して被写体の位置を予測し、先回りしてピントを合わせてくれるのだそうです。ひと昔前までは、右手にカメラを持ち、左手で重たい望遠レンズを支えながらピント合わせをしたものです。オートフォーカスレンズの出現はスポーツ写真を飛躍的に向上させましたが、それでもカメラマンは全面的にオートフォーカスに頼っているわけではありません。時には手動に切り替えながら、相手の動きをファインダーの中で追っているのです。動きの激しいスポーツ写真は、一定レベル以上の動体視力を持っていなければ撮れません。体力的にいっても、年齢はせいぜい四十代半ばまででしょうか。

スキーの滑降や一瞬のジャンプをフレーム一杯にアップで撮る彼らの技術には、舌を巻くものがあります。「置きピン」と呼ばれる撮影方法で、あらかじめもっとも迫力が出ると思われる場所にピントを合わせておき、そこを通過する瞬間にシャッターを切るのです。もちろん、ほとんどのカメラマンはモータードライブつきのカメラを使っていますが、それでもみな、最初の一枚に全精力を傾けています。モータードライブはボタンを押している間中、シャッターを切りつづけてくれますが、これは連続撮影のためというより、巻き上げを迅速に行なうことに主眼があるといったほうがいいでしょう。百キロ以上の猛スピードで飛ばしてくるスキー選手の姿を超望遠レンズで、まるで「静物」を撮ったように正確なピントで撮るのですから、いくら置きピンといっても大変な動体視力だと感心するばかりです。