2014年4月17日木曜日

無責任で運任せ

諸行無常である。運である。私には、あの戦争の後遺症が未だにあって、何でも運だと考え、納得してしまうところがある。才能は、それがある者には、恵まれたことであり、努力は、努力自体はいいものだが、そういったものが必ずしも好ましい結果に結びつくとは限らない。世問は理不尽、人生は矛盾だらけで当たり前、だから人が無責任で運任せであっても、いちいち戒めることはない。私かこんな考え方をするのは、自力に自負を持たないからである。こんな考え方をするのは、あの戦争に、未だに打ちのめされたままだということかもしれない。いずれにしても、こういう私か江藤さんに受け容れられるはずがない。

江藤さんと知り合ったのは、すでにしばしば、言ったり書いたりしたように、私が遠山一行さんの誘いに応じ、かねてから、遠山、江藤さんが刊行を企画していた『季刊部術』に、編集専従者として参加したからである。江藤さんは、その前に、安岡章太郎からいろいろ私のことについて聞いていたのだそうだが、私のような者には、江藤さんはいろいろと、批判や嫌悪があったのではないか。事実、初めのうちは、私に対するいらつきを江藤さんは、多分に持っていただろうと思う。

けれども、いつの間にか、いい質の友情が流れ始めていた。さすがに、江藤さん、包容力も加わり、私に対しても、いらつくのではなく、ある思考の空間として、面白がって迎えてくれるようになった。ただし私は、未復員兵のフルさん、と呼ばれ、コマチック思考と言われた。江藤さんは、奥様にはもちろんだが、友人や後輩たちにも、情豊かで誠実な人であった。これももう、再三、言ったり書いたりしたが、江藤さんに熱心に誠実に勧められて小説を書いたのがスタートになって、私は物書きになった。そのことを、遠山一行さんか引っぱってくれたことと共に恩に着ているが、こんなに突然、思いきりよく逝ってしまった。

心も体も、もう再出発できないほど落ち込んでいて、それかどんな状態であったかを、ある程度は想像して、仕方がないかな、これでいいのかな、とも思います。しかし、大兄のにこやかな笑顔、たのしく話し合ったことの数々、大阪の万博に一緒に行きましたね。京都に和風の小ぢんまりとした宿をとって。あのときでしたね、祇園に司馬遼太郎さんに連れて行ってもらったのは。そういったことを、いくらでも思い出します。そして、とにかく、つらいなと思います。