2015年4月9日木曜日

『食人宴席』とは

中国では、病気の親に滋養をつけさせるため、子供が自分の肉を切り取って食べさせるのが最高の親孝行とされたとも聞く。『食人宴席』の日本語訳者であり、台湾出身の作家、黄文雄は次のように述べている。中国での食人は、呪術や宗教儀礼としての人食い、いわゆるカニバリズムではなく、有史以来、飢餓のたびに人間の共食い現象がよく発生していた。その頻度は、『史記』をはじめとする王朝の公式記録にあるだけでも、平均18年に1回という計算になるという。いうなれば、「食人」は、中国四千年の食の伝統の一部なのである。もちろん中国以外でも、雪山で遭難した人が、やむなく先に死んだ仲間の遺体を食べたとか、日本でも、龍城し兵糧攻めにされた挙句、食人に及んだ、などの話はある。

しかし、それが、リンチとなれば話はまったく別である。しかも、わずか40年前、一般民衆が群れを成して罪なき同胞に襲いかかり、生きたままの人肉を貪っていたという事実を前にするとき、隣国への認識を新たにする日本人は少なくないだろう。「革命」を硝ったリンチには女も老婆も加わった1966年から、毛沢東が死去する76年まで、中国全土を覆った「文化大革命」について、最近では日本でもそれなりに伝えられてはいる。いわく、「毛沢東が仕掛けた階級闘争」「知識人やブルジョアが、紅衛兵らに糾弾された」「闘争が激化し、多くの人が命を落とした」等々。しかし、果たしてこれらの説明は、「文革」の真実を言い当てているといえるのだろうか。文革時代の集会。それは「革命」の名を髪っだ集団リンチである。その中の凄惨極まった例が広西省での食人リンチなのだが、鄭義は、「民族の恥」であるこの事件群を、命がけの覚悟で、ときに涙し身震いしながら暴いている。

突然、糾弾集会が開かれる。住民が参集すると、まず進行役が「毛沢東語録」の一節を読み上げる。その後、血祭りに挙げられる者の罪状を宣告し、大声で群衆に問いかける。「殺すべきか?」この問いに、何の権限もないはずの群衆が大声で反応する。「殺せ!」と。これが合図となって剽り殺しが始まるのである。ある者の告白によると、生きたまま内臓を取り出そうとしたが、体内の血液が熱くてやりにくく、川の水をぶっかけて冷やしながら臓器を引きずり出したという。別の告白はこうだ。腹を切り開き、足で力いっぱい踏んづけて心臓や肝臓を飛び出させる。臓器はたちまち切り取られ、群衆が群かって、あっという間に全身の肉がすっかり削げ取られた。人間の目玉を食べると目がよくなる、との迷信があるため、老婆が新鮮な目玉を狙って、刃物を手に虎視耽々と「開始」の合図を待っていた。