2015年11月10日火曜日

「作為の自覚」を持って精神の近代化を試みる

現実が理念に程遠いものであっても、理念の実現を目指して行動するのと、理念なしで行動するのとでは、結果がまったく異なってくるのは理の当然である。理念なしに行動する人は、万事が場当たりでその場限りの行動しか原理的に取り得ないからである。ゆえに二十一世紀の日本人は、日本文明の宿病でもあった「自然の法則」を自覚的に投げ捨てて、「作為の自覚」を持って「精神の近代化」を試みるべきだと私は考える。むろんこれは日本文明の変革を意味する。文明の変革はアイデンティティの喪失を生むのではないか、とする危惧もあろう。

だが、もともといかなる文明も発展しながら変革してゆくものであるよ、変革されたからといってアイデンティティを失うものでもない。文明がアイデンティティを失うのは、ひどい天災に襲われたり他文明に武力で滅ぼされ、地上から姿を消したときである。それ以外は他文明の影響は逆に自文明をいっそう活性化し、新たな段階へと発展させる契機ともなるのである。これは日本の歴史を見ればわかる。わが国が中国文明や西欧文明の影響をほとんど受けぬまま過ごしてきたとしたら、今日いかなる文明となっていたかを思考実験してみればよい。

他文明の強い影響下での日本文明の変革はアイデンティティの危機どころか、逆に日本文明を活気づかせ、新たなアイデンティティを生む契機ともなってきたのである。外来であったはずの儒教道徳や仏教思想が神仏儒習合により日本的に変革されて、いつの間にか日本人の心の一部のようになって、日本文明のアイデンティティの一角を形成してしまったようにである。