2014年5月23日金曜日

日本の政府開発援助

とかく政府文書というのは、無味乾燥で、どうとでもとれる曖昧さをもってその特徴としているが、外務省経済協力局の編になる『我が国の政府開発援助』(一九九〇年版、上巻)は、日本の援助理念について、めずらしくもずいぷんとはっきりものをいっている。我が国は、援助に当たって途上国の自助努力を支援することを重視し、援助の内容においても、我が国自身の考え方を押しつけるのではなく、先方の要請をベースに我が国が取捨選択するという対応を基本とするとともに、原則として、援助に政治的な条件をつけることを内政不干渉の見地より差し控えてきた。

このような我が国のいき方は、米国が自ら普遍的価値として唱導する自由と民主主義の普及を援助実施の一つの柱としたり、またフランスが仏語・仏文化の普及を援助実施の一つの柱としたりしているのとは相当異なっている。我が国は、援助に際し、政治的な価値や経済開発についての我が国の考え方の押しつけはこれを極力排しつつ、専ら開発のためには何か良いかを相手国の要請を踏まえた話合いを通じて、考えてきたわけである。

ここでのキーワードは「要請」主義であるが、これについて同書はつぎのような、これも明晰な考え方を披渥している。「開発は、途上国の経済・社会・文化さらには政治に直接関わる変革のプロセスであり、途上国自身が主体的な責任を負うべきものである。また、途上国の国内において行われる開発案件は、その実施のために途上国の自主的な努力が不可欠である。我が国の援助は、円借款案件であれ、無償資金協力案件であれ、我が方が丸抱えするのではなく、途上国も案件実施のために必要な現地通貨、土地手当て等を負担するといった自助努力を行うことを前提として、いわば共同事業として行っているのであって、途上国が積極的に案件の価値を認めない場合には、これを実施できないし、実施すべきではない。

この理念はたしかに日本のこれまでの援助の実態に根ざしたものであり、必要とさるべき理念は、これ以上でも以下でもないと私も考える。要するに日本の援助の理念は、開発途上国の「自助努力」を、政治的な条件(「コンディショナリティー」)をつけることなく、受入れ国の要請にもとづいて支援するというものである。明示的には書かれていないものの、開発途上国の自助努力を引きだすには、援助の中核が返済を要する借款でなければならない、という考え方がこれに付加される。

2014年5月2日金曜日

「強蓄積」メカニズム

中国における集権的計画経済から市場経済への転換は、たしかに「世紀の実験」というにふさわしいドラマである。この転換を、中国はどのように試みてきたのであろうか。転換の軌跡を追うことは容易ではないが、興趣のつきないテーマである。毛沢東時代の集権的計画経済のメカニズムがいかにして形成され、そして「自己破壊」していったのか。

どのような経緯を経て、計画経済のメカニズムが新しく市場経済のメカニズムへと転換していったのか。本章では、その論理を追ってみたい。論点の中核は、「蓄積メカニズム」である。第一次計画期(一九五三~五七年)以来、長きにわたり中国経済の中核に位置してきたのは、「全民所有制単位」すなわち国営の重工業部門であった。重工業化を通して貧しい農業国段階を脱し、豊かな社会主義国家をいちどきに実現することがめざされたのである。

旧中国の「半封建・半植民地」の「負」の遺産を継承し、かつ狭小な耕地に過大な人口を押しこんだいちじるしく貧困な農業国として出発した新中国が、そうした「初期条件」を顧慮することなく急速な重工業化をめざしたことは、顧みて無謀な試みであった。しかし、中国は国共内戦に淵源をもつ米中対決、一九五六年のソ連共産党大会におけるスターリン批判によってはやくも露わとなった中ソ対決という、超大国とのきびしい政治的・軍事的緊張下で建国を進めざるをえなかったのである。

往時の中国の指導者が、重工業化を通してみずからを強国たらしめぬ以上、革命の成果を守りぬくことができないと認識したのには、無理からぬものがあった。農民大衆運動を通して社会主義中国を掌中におさめ、強大な権力を一身に集めた毛沢東の純粋で空想的な社会主義観が、そうした「急進主義」を生んだもうひとつの要因であった。

国民経済の圧倒的部分を低生産性の農業が占めるという初期条件のもとにありながら、なお重工業化を急速かつ大規模に展開しようというのである。そのための資源を求むべきさきは、いかに低生産性とはいえ、農業部門以外にはなかった。