2015年1月13日火曜日

腐敗の温床となった経済首都

本来、党内に派閥はあってはならないが、多くの組織と同じように政治志向や地縁。血縁あるいは人脈によって形成された派閥が党の創立以来、歴然と存在し、激しい権力抗争を演じてきた。再び共産党を会社に例えれば、江沢民グループは二〇〇二年に社長(総書記)、○四年に会長(軍事委員会主席)を退いた後も、なおも常務会の過半数を占めて隠然とした力を保つ前会長派であり、現役社長である胡錦濤がその対応に苦慮してきたと考えても、大きな間違いはないだろう。二〇〇六年春、当時の最高指導部のメンバーで党政治局常務委員の一人が突然、姿を消した。党内序列六位の黄菊(一九三八年生まれ)である。金融を担当する常務副首相の重責を担うが、一月十六日、銀行監督管理委員会に出席後、党・政府のすべての重要会議や行事を欠席した。三月の全国人民代表大会(全人代)にも姿を見せなかった。

香港や台湾では、その理由として「末期の評臓癌で再起不能」とするものなど様々な情報が行きかった。実はそれが、この年に始まる上海グループの決定的な凋落の密かな前兆であった。中国では指導者の健康に関する情報は第一級の国家機密で、発表されることはまずない。しかし、飛びかう憶測を打ち消すためか、この年の三月二日、全人代と並行して開かれる政治協商会議(政協)の記者会見でスポークスマンの呉建民が。黄は「体調不良で入院治療を受け、現在回復しつつある」と明かしたのである。しかし、この発表にも疑問がつきまとった。中国では全人代など重要会議に現れ健在を示すのは、中央・地方を貫く派閥の頂点に立つ指導者にとって最も重要な活動だ。過去、看護師らに支えられて姿を見せた有力者も少なくない。黄の不在はニカ月以上にわたり、よほど病状が重いのか、あるいは他の理由によるものかをめぐって疑いが深まった。中国に特有の「政治病」という疑惑である。

黄の不在に関心が集まったのは、彼が、その存在が公然の秘密だった、胡錦濤指導部に対抗する党内勢力、江沢民前総書記が率いる「上海グループ」の核心メンバーだったからだ。黄は清華大学卒業後、上海の国有企業に配属される。一九八〇年代には上海市政府に入り、九〇年代に市長、党書記を歴任した。二〇〇二年の党十六回大会で政治局常務委員に抜擢され、翌年には不在時に首相を代行する常務副首相にまで上りつめた。上海では、九〇年代の目覚しい発展は、黄よりも一つ年上で、ライバルの徐匡迪元市長の功績という声も強い。しかし、上海市長から首相になった朱鎔基の剛直な政治姿勢を受け継いだ徐は敵も多く、中央指導部に入ることなく技術者の養成機関である中国工程院の書記に転出した。これに対し黄が副首相四人の筆頭に抜擢されたのは、上海時代から仕えた江沢民の引き立てによるのは明らかだった。

特に黄の江一族に対する面倒見の良さは有名で、江の息子たちには「黄おじさん」と慕われていたという。同じく上海市党副書記から江とともに中央政界に転じ、国家副主席に就いた曾慶紅が党や軍への工作で江を支えたのに対し、黄は江の権力基盤である上海を取り仕切って一族の利益を図った。江沢民の長男、江綿恒(一九五二年生まれ)は、現代中国の「超法規的存在」として有名だ。米国留学後、中国科学院に入り副院長を務める傍ら、多くの投資会社を経営する。会社の顧問にはブッシュ米大統領の弟も迎え、台湾プラスチックの王永慶会長の息子と上海に半導体の合弁工場を設立した。二〇〇四年、中国初の有人宇宙船「神船五号」の打ち上げでは、プロジェクトの副総指揮として中国紙のインタビューにも登場している。

次男の江綿康(一九五七年生まれ)もドイツ留学後、上海市政府に入り、都市発展情報セッター主任など開発部門の責任者を歴任した。江沢民の妻、王冶坪の一族も、上海の公安や税務当局の実権を握っている。江一族にとって上海はまさに金城湯池で、黄の地位は一族に対する利益供与と引き換えにあると言っていい。ここに上海グループという党内派閥の誕生と、その発展の秘密がある。しかし、中国最大の経済都市、上海を中心に張りめぐらされた閏閥は腐敗の温床でもある。その一端が垣間見えたのは、胡政権が発足した二〇〇三年に発覚した「上海一の富豪」、周正毅をめぐる疑惑だ。周は改革・開放で生まれた「新富人」、ニューリッチの典型である。一九六二年、上海の労働者家庭に生まれながら、留学ブームで日本に渡り、毛生え薬「101」の販売で資金を得た。上海の繁華街に妻と開いたレストランを拠点に市政府や銀行幹部の接待を重ね、築いた「関係」が株や不動産投資の成功につながる。