2015年12月9日水曜日

おまえはどっちの店員か

幸之助はそのときのことを、のちにこう述懐している。「人と人との関係はむずかしいもんやということですな。だれも損をしない、いいアイデアでさえも、ときには長続きしないことがあるんです。今考えると、タバコで儲けた金を、全部といわんまでも、一部出して、みんなにおごったらよかったんです。利益の還元というか、分配ですね。しかし、そのころは、そこまでは気がつかなかった」自転車店で小僧としての修業を始めて三年目、十三歳のころのことである。幸之助は、二度自分一人で自転車を売ってみたいものだと考えるようになっていた。当時、自転車は百円前後。今日の自動車に匹敵する価格で、客から話があっても、小僧が一人で売り込みに行くなどということはできなかったのである。

そんなある日、本町二丁目の蚊帳問屋から、「自転車を買いたいのやが、ちょうど今、主人が店にいるから、すぐ持ってきて見せてくれ」と電話が入った。ところがあいにく番頭も店員もみな出払っていて、幸之助しかいない。主人は、「先様もお急ぎのようだから、おまえとにかくこれを持っていっておいで」と幸之助に命じた。幸之助にとっては好機到来である。自転車の性能を蚊帳問屋の主人に、一所懸命説明した。十三の子どもが熱心に説明するのがよほどかわいく見えたのか、主人は、「なかなか熱心なかわいいぼんさんやなあ。よし、買うてやろう」と言ってくれた。

「ありがとうございます」「その代わり一割まけとき」幸之助は、いつも店では一割まけて売っているのを知っていた。だから、「はい、よろしおま、店に帰って主人にそう伝えます」と意気揚々と引きあげてきて報告した。「あれ一割引いて売ってきましたでえ」当然喜んでくれると思った主人が、渋い顔で言う。「なんでいっぺんに一割も引くんや。商売人というもんはそんなに簡単にまけたらあかん。五分引く話はあっても、いっぺんに一割引く話はあらへん。五分だけ引くともう一度言うてこい」いくら小僧でもいったん売ると約束してきたあとである。いまさら話が違いましたとは言いにくい。そう言わずにまけてやってくれと、幸之助はシクシク泣きだしてしまった。これには主人も面くらって、「おまえはどっちの店員か。しっかりせなあかんやないか」とたしなめたが、幸之助は容易に泣きやまなかった。

そうこうするうちに蚊帳問屋の番頭が、「えらい返事が遅いがまかりまへんか」と尋ねてきた。そこで主人が、「この子が帰ってきて、一割引きにまけてあげてくれと言って泣きだしよって、いまもどっちの店員かわからんやないかと言うておったところです」と事情を説明する。番頭からその様子を伝え聞いた蚊帳問屋の主人は、「なかなか面白い小僧さんやないか。それじゃ、その小僧さんに免じて五分引きで買うてあげよう」とうとう幸之助は自転車を売ることに成功した。それだけではなく、この話にはおまけがついた。「この小僧さんがいるうちは、自転車はおまえのところから買うてやろう」幸之助は大いに面目を施したのである。

幸之助が五代自転車商会に移ってから四年あまりたったときのことである。初めは三人だった店員も、店がしだいに繁盛して、そのころには七、八人に増えていた。そのなかの一人が、店の品物を黙ってよそに売り、その代金を使っていたことが発覚した。非常に才気にたけ、よく間にあって重宝がられていた店員である。主人は、初めてのことであるし、本人も詫びている、年も若いし惜しいということで、よく訓戒してもう一ペん使うことにした。ところが、それを聞いた幸之助は承知しなかった。主人のところに行って、「お暇を頂戴したい」と申し出た。突然のことで主人も驚いて、「どうしてだ」ときく。「ご主人はあの人をもう一ペん使うことに決められましたが、私はそれに承服できません。ああいう悪いことをした人といっしょに働くのは潔しとしませんから、お暇を頂戴いたします」

2015年11月10日火曜日

「作為の自覚」を持って精神の近代化を試みる

現実が理念に程遠いものであっても、理念の実現を目指して行動するのと、理念なしで行動するのとでは、結果がまったく異なってくるのは理の当然である。理念なしに行動する人は、万事が場当たりでその場限りの行動しか原理的に取り得ないからである。ゆえに二十一世紀の日本人は、日本文明の宿病でもあった「自然の法則」を自覚的に投げ捨てて、「作為の自覚」を持って「精神の近代化」を試みるべきだと私は考える。むろんこれは日本文明の変革を意味する。文明の変革はアイデンティティの喪失を生むのではないか、とする危惧もあろう。

だが、もともといかなる文明も発展しながら変革してゆくものであるよ、変革されたからといってアイデンティティを失うものでもない。文明がアイデンティティを失うのは、ひどい天災に襲われたり他文明に武力で滅ぼされ、地上から姿を消したときである。それ以外は他文明の影響は逆に自文明をいっそう活性化し、新たな段階へと発展させる契機ともなるのである。これは日本の歴史を見ればわかる。わが国が中国文明や西欧文明の影響をほとんど受けぬまま過ごしてきたとしたら、今日いかなる文明となっていたかを思考実験してみればよい。

他文明の強い影響下での日本文明の変革はアイデンティティの危機どころか、逆に日本文明を活気づかせ、新たなアイデンティティを生む契機ともなってきたのである。外来であったはずの儒教道徳や仏教思想が神仏儒習合により日本的に変革されて、いつの間にか日本人の心の一部のようになって、日本文明のアイデンティティの一角を形成してしまったようにである。

2015年10月9日金曜日

「拠出制」の国民年金

年金給付は「定額部分」と「報酬比例部分」の二つからなり、配偶者と子に「加給年金」を支給することとし、老齢年金は男子だけ六〇歳支給とした。恩給制度は占領時代に、占領軍の命令により軍人恩給の支給が停止された。元軍人には生活難におち入る人もあったが、一九五三年恩給制度は復活した。しかし、民主主義の時代になり、国からの恩賞という制度への批判があり、国の財政負担の重さをめぐって。恩給亡国の声もあがった。さらに同じ国家公務員でありながら、官吏か雇用人かによって、恩給と共済組合という別の制度が適用され、掛金も違う不公平が指摘され、二つの制度の一本化が検討された。

一九五九年、国家公務員共済組合に恩給制度は統合され、さらに一九五六年、国鉄、電電公社、専売公社をふくむ公共企業体職員等共済組合法が公布、さらに六二年、地方公務員共済組合法が公布された。本来、厚生年金の対象であった私立学校教職員と農林漁業団体職員は、一九五四年と一九五八年に厚生年金から抜け出してそれぞれ共済組合をつくった。その理由には、年金基金の自主運用権をもつことなどをあげていたが、実際は、厚生年金の給付が共済組合より低いためであったといわれている。

農林漁業や商業など自営業に従事する人々には、それまで加入する年金制度がなかった。五人未満の事業所で働く人々にも厚生年金は適用されず、家庭の主婦も年金とは縁がなかった。一九五五年の推計では、公的年金の未適用者の数は二〇歳から四九歳で二七三九万人(この年齢層の七五%)にのばった。

国民すべてに年金のアミをかぶせ「国民皆年金」を目ざして一九五九年、国民年金法が成立。同年、「拠出」なしで全額を国庫が負担する「福祉年金」が発足し、七〇歳以上の高齢者二〇八万人に年金の支給がはじまった。支給額は月一〇〇〇円、「アメ玉年金」と話題になった。この「老齢福祉年金」の額は次第に増額され、一九九一年度で月二万九九三三円となっている。

「拠出制」の国民年金は、一九六一年四月にはじまった。加入者は二〇歳から五九歳までで、ほかの公的年金の適用を受けていない者とし、保険料は三五歳未満で月一〇〇円、三五歳以上月一五〇円、給付は六五歳支給とし、二五年加入で月二〇〇〇円の年金であった。また一九八五年の改正で、二〇歳から五九歳までの国民は、すべて国民年金に加入し基礎年金を受けることになり、厚生年金、共済年金の加入者も国民年金に加入することになった。国民年金は文字どおり全国民の年金に衣更えし、厚生年金、共済年金が拠出する国民年金分の保険料による財政調整によって、国民年金の財政は安定したのである。

2015年9月9日水曜日

生殖技術のこれから

精子・卵や受精卵の提供については、日本はドイツ、スウェーデンと同じく認めていない。代理母は人工授精型・体外受精型であろうが、商業的・非商業的であろうがほとんどの国が認めていない。しかしイギリスでは、一九九〇年になって、代理母に医師の関与を一切認めないことはもはや不可能であるとして、代理母だけが子どもをもつ唯一の方法であるカップルについては認めることになった。ただひとつの例外はアメリカで、この国では技術的に可能なあらゆることが実行できる。性交という伝統的な手段によらないで生殖を可能にする体外受精などの生殖技術は、さまざまな新しい可能性を秘めた技術である。そのような可能性を垣間見せたからこそ体外受精に対しては、多くの国で技術の許否をめぐって激しい議論が沸き起こったのであら。

議論の結果多くの国が出した結論は、その国の歴史、伝統、文化によって少しずつ異なってはいるが、生殖技術をこれまでの家族、親族などをめぐる社会秩序を大きく変えない範囲で実施していくことであった。体外受精児第一号が出生してから二〇年近い年月が経過した。しかし前述のように成功率は一〇から一五パーセント前後であるから、体外受精はそれを実施すれば必ず子どもをもつことができるという技術ではない。投与される排卵誘発剤などのホルモン剤が、女性や生まれてくる子どもにとって副作用のない安全性の高いものかどうかも十分には明らかでない。このような現状では、体外受精技術をさらに改善して安全性、確実性、信頼性の高い医療としていくことは極めて重要である。

また安全で確実な避妊法を開発し、不妊のメカニズムを探究し、さらに子どもの遺伝的障害を予防するためにも、ヒトの受精卵、それもごく初期の段階のものを対象とした実験・研究がどうしても必要になる。体外受精の研究に関しては国際的にも高く評価されているモナシユ大学のアラソートラソソソ博士は、受精卵を対象とした実験・研究が必要な理由をつぎのように述べている。「臨床応用にあたっては動物実験だけで十分だから、倫理的に問題む多い人間の生殖細胞や初期受精卵(通常受精後一四日で現われる原条が出現するまえの極めて初期の受精卵)に対して実験・研究を行なう必要はないという主張がある。

確かに動物の細胞は配偶子(精子と卵)や初期受精卵などを含めて、新しい技術を開発したり新しい技術の安全性をテストするのに有効であるが、ヒトという種特有な現象は動物実験では解らない。最も有名な例としては、サリドマイドによる奇形が、動物には現われないのに人間だけ出現したという事実がある。」ヒト精子・卵・受精卵を取り扱う研究に関する見解。研究者のこのような主張は、キリスト教的思考体系をもたない場合には比較的問題なく受け容れられることであろう。ヒトの生殖細胞であり人間になる可能性を秘めたものであっても、医学の進歩という人類の福音のためならば、実験・研究の対象とすることが認められてしかるべきであるということになる。したがって日本で受精卵に対する実験・研究をめぐって問題となったのは、実験・研究の際にこれらの提供者の承諾を得ないで無断で行なったということだけであった。

日本でも体外受精が成功するまでに、子宮癌などで摘出された卵巣から採取した卵を使って、卵を受精させるなどの基礎的な実験が広く行なわれてきたことはいうまでもない。しかしその際、卵を体外受精の実験のために使用することについて患者にはまったく知らせず、したがって同意も得ないことがあった(福本英子『生物医学時代の生と死』技術と人間、一九八九年)。このことがたまたま徳島大学で明らかになり、徳島大学卵盗用事件としてマスコミが大きく報道した。患者の卵を無断で採取して実験・研究に使用するという、ともすれば医学界で一般的に行なわれていたことが卵の盗用として問題視されたのである。

2015年8月11日火曜日

相続税は重税か

以上で述べた考えに対しては、さまざまな反対論があるだろう。まず考えられる反対意見は、「相続税はすでにかなり重い負担となっているので、これをさらに引き上げるのは適当でない」というものだ。相続税の負担としてどの程度の水準が適切かは、きわめて難しい問題である。相続税に対する意見には、その人の世界観や社会での地位が如実に反映するといってもよい。

ただし、そうした議論を行なう前提として、「相続税の負担が、本当はどのようなものか」を知っておくことが重要である。なぜなら、これについては誤解が非常に一般的だからだ。たとえば、「相続税で遺産の七割がもってゆかれてしまう」と、しばしばいわれる。これは本当だろうか。確かに、相続税の税率は、最高七割まで上昇する。だから、数百億円というような遺産を一人で相続した場合には、負担率が七割近くまで及ぶのは、ありえないことではない。

しかし、このようなケースは、非常にまれなのである。普通のサラリーマンの場合にっいていえば、相続税の負担率は、むしろ驚くほど低い。とくに、土地が相続財産の主要部分を占める場合には、そうである。最大の原因は、「小規模宅地特例」にある。これは、二〇〇平方メートルまでの部分について、評価を五分の一に減額するという措置だ。他方で、子が三人いれば、基礎控除が八〇〇〇万円となる。だから、小規模宅地であれば、評価額が四億円までは、相続税がゼロになる。このように、規模があまり大きくない土地に関するかぎり、相続税の負担は、非常に低い。

もし一年間の労働収入が四億円であれば、これに対する税負担は、非常に重くなる。労働所得は、社会に対する何らかの貢献の結果として得られるものだ。日本の税制は、こうした所得には重い負担を課す半面で、親から得る資産移転(すでに述べたように、福祉社会では本来は社会化されるべきもの)に対しては、非常に軽い負担しか課していないのである。高齢者への給付の財源は相続税によるべきこと、現在の相続税は普通の人にとってはさほど重い負担を課すものではないことを述べた。

2015年7月9日木曜日

果敢なリスクヘの挑戦

リスクを負担しなければ収益もない。収入をもたらすプロは、言葉を換えればリスクを作って会社に負担させる人々である。会社はその資本をもってリスクを負担する。投資銀行の専門家やトレーダーたちは、リスクを最大限に会社に負担させ、成功すれば莫大なボーナスを手に入れるが、損失をだしたときにはどうするのだろう。ブラックーボックスのプログラムで、市場の歪みを見つけて利益をあげたら、その一五%を支払うと会社に約束させ、ときには三〇〇〇万ドルも受け取る自己勘定のトレーダーは、損失をだしたときには、逆にその一五%を会社に支払うだろうか。

ここで九八年のロシア通貨危機に際して、野村証券の米国法人がこうむった「被害」を、報道によってふりかえっておこう。日本の金融機関では、もっともグローバルに投資銀行業務で競争できそうだと思われる二つの金融機関、日本興業銀行と野村証券が九八年、金融エンジニアリングの分野で提携した。前途に期待したいところだが、野村証券は九八年、三十七歳の青年、イーサンーペナーという男のために巨額の損失を計上することになった。

ペナーは、モルガンースタンレー証券で提案したモーゲージ担保証券ビジネスのアイディアが受け入れられず、野村米国法人へ移って夢を実現した。それが商業用モーゲージ担保証券CMBSで、九三年から九七年までに野村に一〇億ドルの利益をもたらしたという。しかしこれが一転、九八年は六億ドルの損失となってしまったのである。

CMBSは不動産証券化商品の一つで、投資銀行などがホテルやオフィスなど商業用不動産向けの融資を行い、その債権を回収リスクにしたがって格付けし、証券化して投資家に転売するというものである(その仕組みの詳細については省略する)。

当時は米国の景気拡大に伴い、不動産需要に資金調達が追い付かないという時期であった。銀行や保険会社が数力月かけて不動産関連融資を審査するのに、野村は数日で融資を決定し、次々と巨額の案件をまとめ、発行されたCMBSを銀行や保険会社、ミューチュアルーファンドはもちろん、ヘッジファンドにまで販売し、巨大な利益をえた。縦横に発揮された若い独創的才能、果敢なリスクヘの挑戦、迅速な意思決定など、まさに投資銀行業務の真髄がそこに見られる。彼のボーナスは二年で二五〇〇万ドル、取引先接待のパーティには、エルトンーションといった人気アーティストを出演させるなど話題にも事欠かなかった。

2015年6月9日火曜日

医療費の自然増への対策

医療費が年々ふえるのは世界共通の現象である。この因子のひとつに医療技術の発達によるものがある。スウェーデンでは、医療技術の発達を医療に取り入れるためには、委員会を常設してたえず検討し、その結論を採用している。委員のなかには医療経済の専門家を入れ、医療経済の側面からプラスになるかどうかを重要項目としている。高度の医療技術だからといってただちに採用するようなことはしない。

たとえばESWLという機器がある。西ドイツで開発されたもので、体外から体内の結石を破砕するものである。開発当初は日本円で数億円もした。スウェーデンでは、開発当初から委員会でESWLの導入を検討したが、一九九〇年に導入を決定した。その理由は、これまでの胆石などの結石手術では一〇~二〇日間も入院したが、それが外来ですむということと、傷病手当金が二日間ですむというメリットがあり、高額機器を導入しても結果として安くっくということであった。全国で数力所の大病院に設置されている。この視点は日本でも考えるべき点と思われる。

現在、スウェーデンの入院患者の七〇パーセント以上が高齢者である。これが入院費や医療費の相当部分を占めている。これらの人々のなかには、たしかに病院での治療を必要とする人もいるが、多くが帰るところがなくて入院しているのは、日本と似ている。スウェーデンは核家族が多く、家族と同居している老人は二十パーセントにすぎない。これらの人々をナーシングセンターや在宅介護に移行させたいと考えている。

スウェーデンは二〇〇〇年には老齢化率が一七・ニパーセソトになり、そこから少し老齢化率は減りはじめる。しかし二〇〇〇年に五パーセントを占める後期老齢者(オールドーオールド)はふえていく。これらの人たちはどうしても″社会的入院”になりがちである。これをどのようにするかというのは結局のところ在宅介護以外に方法がない。

したがって介護費用は今後もふえるものと考えざるをえないが、入院するよりも在宅のほうが、はるかに費用は少なくてすむ。社会的入院の排除こそが社会保障のリフォームの目玉なのである。病院に入院すると一日三〇〇〇クローネかかるが、ナーシングホームは1000クローネである。在宅介護はもっと安い。この″流れ″をつくろうとしているわけである(患者負担の上限は年一六〇〇クローネ)。

2015年5月14日木曜日

石油高騰は不可避である

第一は、米国の石油自国生産・輸入および代替エネルギー生産の分水量はバレルニ○ドル見当であること。つまり暴騰せぬ限り、米国景況にはプラス面は多いが、輸入インフレなり景気頭打ちの要素ともなりうること。さらに米国はアラスカ原油を温存していること。ソ連の粗放的原油生産には米国の巨大コンピュータを駆使した探鉱・採油技術を必要としていること。

中東地域の生産・流通の鍵を握るペルシア湾のホルムズ海峡(北側イラン、南側はオマン領。出湾・人湾はすべてオマッ領海内を通り、海峡幅は五〇キロであるが、各二海里の幅で入出各航路および分離帯が設置され、タンカーはその110キロの帯を航海する。世界最大の戦略的石油ルート。

分離帯上には常時、ソ連太平洋艦隊所属のグリヴァタⅡ級ミサイル駆逐艦が漂泊している)は常に全世界の注視を浴びている。近年、湾岸諸国の陸送パイプライン設置、消費国側の備蓄の強化、省エネ体制強化、代替エネルギー開発の即応力拡充、湾岸以外のOPEC・非OPEC諸国の増産余力などで、たとえ一時的に同海峡が封鎖されてもいちおうの耐久力はできている。

しかしそれも長期化すれば石油高騰は不可避であるし、逆オイル・ショック後雌伏していたOPECの石油戦略再現を誘発する恐れがある。石油専門家は九〇年代後半には再び石油危機の突発をほぼ一致して予期している。また陸上よりも海底油田開発に今後の期待が集中し、水深二〇〇メートルまでなら一兆五、〇〇〇億バレル、沿岸より四〇マイル以内なら一兆三、五〇〇億バレルの埋蔵量推計がなされている。以上のことなどは基本的事実として知っておいてよいことであろう。

2015年4月9日木曜日

『食人宴席』とは

中国では、病気の親に滋養をつけさせるため、子供が自分の肉を切り取って食べさせるのが最高の親孝行とされたとも聞く。『食人宴席』の日本語訳者であり、台湾出身の作家、黄文雄は次のように述べている。中国での食人は、呪術や宗教儀礼としての人食い、いわゆるカニバリズムではなく、有史以来、飢餓のたびに人間の共食い現象がよく発生していた。その頻度は、『史記』をはじめとする王朝の公式記録にあるだけでも、平均18年に1回という計算になるという。いうなれば、「食人」は、中国四千年の食の伝統の一部なのである。もちろん中国以外でも、雪山で遭難した人が、やむなく先に死んだ仲間の遺体を食べたとか、日本でも、龍城し兵糧攻めにされた挙句、食人に及んだ、などの話はある。

しかし、それが、リンチとなれば話はまったく別である。しかも、わずか40年前、一般民衆が群れを成して罪なき同胞に襲いかかり、生きたままの人肉を貪っていたという事実を前にするとき、隣国への認識を新たにする日本人は少なくないだろう。「革命」を硝ったリンチには女も老婆も加わった1966年から、毛沢東が死去する76年まで、中国全土を覆った「文化大革命」について、最近では日本でもそれなりに伝えられてはいる。いわく、「毛沢東が仕掛けた階級闘争」「知識人やブルジョアが、紅衛兵らに糾弾された」「闘争が激化し、多くの人が命を落とした」等々。しかし、果たしてこれらの説明は、「文革」の真実を言い当てているといえるのだろうか。文革時代の集会。それは「革命」の名を髪っだ集団リンチである。その中の凄惨極まった例が広西省での食人リンチなのだが、鄭義は、「民族の恥」であるこの事件群を、命がけの覚悟で、ときに涙し身震いしながら暴いている。

突然、糾弾集会が開かれる。住民が参集すると、まず進行役が「毛沢東語録」の一節を読み上げる。その後、血祭りに挙げられる者の罪状を宣告し、大声で群衆に問いかける。「殺すべきか?」この問いに、何の権限もないはずの群衆が大声で反応する。「殺せ!」と。これが合図となって剽り殺しが始まるのである。ある者の告白によると、生きたまま内臓を取り出そうとしたが、体内の血液が熱くてやりにくく、川の水をぶっかけて冷やしながら臓器を引きずり出したという。別の告白はこうだ。腹を切り開き、足で力いっぱい踏んづけて心臓や肝臓を飛び出させる。臓器はたちまち切り取られ、群衆が群かって、あっという間に全身の肉がすっかり削げ取られた。人間の目玉を食べると目がよくなる、との迷信があるため、老婆が新鮮な目玉を狙って、刃物を手に虎視耽々と「開始」の合図を待っていた。

2015年3月10日火曜日

望ましい日米関係とは

米国大統領は中国訪問(九八年六-七月)に九日間も費やしながら、日本素通りで帰ってしまった。大統領選挙(二〇〇〇年十一月)の争点は国内問題のみで、対日関係はほぽゼロ。

こうした状況を、経済摩擦が激しかったころの「ジャパンーバッシング(叩き)」から「ジャパン・パッシング(素通り)」に変わってしまったと、ひがみっぽく言う傾向が、日本側の一部にある。

外交、軍事専門家の間では、七一年夏の「ニクソン・ショツクの再現」、つまり日本頭越しの対中接近と同類の、突然の「安保条約破棄通告」を想定した安全保障論議が行われることがある。米側ではこれを日本の「すがりつき」と受け取る。

望ましい日米関係は、ひがんだりすがりついたり、あるいはその時々の経済状況によって居丈高になったり卑屈になったりするものであってはなるまい。また、ジャズや米語などに対する好みからくる親米・反米とは、まったく無縁のものでなければならない。

激変を続ける国際社会で日本がどう生き抜いていくかというぎりぎりまで詰めた実利と、日本国憲法に示された国際平和の理想とを両立させる方途をさぐりながら、超大国・米国との距離を冷静に計っていくことに尽きる。

2015年2月10日火曜日

無視された「使用期限」の要望

名護市に代替施設が建設されることになった米軍普天間基地は、宜野湾市の中央部にある米海兵隊のヘリコプター基地。広さは4.8平方キロで、同市の面積の25パーセントも占めている。

県内に本拠地を置く第三海兵遠征軍所属のヘリ約50機、空中給油機など固定翼機15機が常駐している。その中核の第36海兵航空群は、上陸作戦支援の対地攻撃、偵察、空輸などが主な任務だ。

21世紀の「国際都市形成構想」の中核となるアクションプログラムの一つとして、2015年までに米軍基地の段階的な全面返還を唱えた沖縄県の大田昌秀知事(当時)が、第一に返還を求めてきたのがこの普天間飛行場だった。

95年9月5日に起きた三人の米海兵隊員による女子小学生強姦事件を機に、沖縄で高まった基地返還運動を鎮める狙いで、クリントン米大統領が対日返還を決断した。

当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日大使が96年4月13日の共同記者会見で発表したところによると、日米両国は「5年ないし7年以内に」全面返還することに合意した。

のちに米側か普天間基地の返還と引き換えに、日本政府に対して、滑走路付きの代替基地の建設と提供を求めたため、県内移設の候補地選びが焦点となっていた。

普天間基地の返還と名護市での代替基地の建設は、96年4月の「日米安保共同宣言」に基づいて行われる沖縄米軍基地群の再編・統合の一環で、21世紀の先ざきまで沖縄をアジア太平洋地域における米軍の軍事作戦の出撃拠点として、長期的かつ安定的に確保することに最大の狙いがある。

共同宣言は、「日米安保条約を基盤とする両国間の安全保障面の関係が、共通の安全保障上の目標を達成するとともに、21世紀に向けてアジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であることを再確認した」と述べ、米国のアジア太平洋地域での軍事的責任(コミットメント)の重要性を改めて強調している。

2015年1月13日火曜日

腐敗の温床となった経済首都

本来、党内に派閥はあってはならないが、多くの組織と同じように政治志向や地縁。血縁あるいは人脈によって形成された派閥が党の創立以来、歴然と存在し、激しい権力抗争を演じてきた。再び共産党を会社に例えれば、江沢民グループは二〇〇二年に社長(総書記)、○四年に会長(軍事委員会主席)を退いた後も、なおも常務会の過半数を占めて隠然とした力を保つ前会長派であり、現役社長である胡錦濤がその対応に苦慮してきたと考えても、大きな間違いはないだろう。二〇〇六年春、当時の最高指導部のメンバーで党政治局常務委員の一人が突然、姿を消した。党内序列六位の黄菊(一九三八年生まれ)である。金融を担当する常務副首相の重責を担うが、一月十六日、銀行監督管理委員会に出席後、党・政府のすべての重要会議や行事を欠席した。三月の全国人民代表大会(全人代)にも姿を見せなかった。

香港や台湾では、その理由として「末期の評臓癌で再起不能」とするものなど様々な情報が行きかった。実はそれが、この年に始まる上海グループの決定的な凋落の密かな前兆であった。中国では指導者の健康に関する情報は第一級の国家機密で、発表されることはまずない。しかし、飛びかう憶測を打ち消すためか、この年の三月二日、全人代と並行して開かれる政治協商会議(政協)の記者会見でスポークスマンの呉建民が。黄は「体調不良で入院治療を受け、現在回復しつつある」と明かしたのである。しかし、この発表にも疑問がつきまとった。中国では全人代など重要会議に現れ健在を示すのは、中央・地方を貫く派閥の頂点に立つ指導者にとって最も重要な活動だ。過去、看護師らに支えられて姿を見せた有力者も少なくない。黄の不在はニカ月以上にわたり、よほど病状が重いのか、あるいは他の理由によるものかをめぐって疑いが深まった。中国に特有の「政治病」という疑惑である。

黄の不在に関心が集まったのは、彼が、その存在が公然の秘密だった、胡錦濤指導部に対抗する党内勢力、江沢民前総書記が率いる「上海グループ」の核心メンバーだったからだ。黄は清華大学卒業後、上海の国有企業に配属される。一九八〇年代には上海市政府に入り、九〇年代に市長、党書記を歴任した。二〇〇二年の党十六回大会で政治局常務委員に抜擢され、翌年には不在時に首相を代行する常務副首相にまで上りつめた。上海では、九〇年代の目覚しい発展は、黄よりも一つ年上で、ライバルの徐匡迪元市長の功績という声も強い。しかし、上海市長から首相になった朱鎔基の剛直な政治姿勢を受け継いだ徐は敵も多く、中央指導部に入ることなく技術者の養成機関である中国工程院の書記に転出した。これに対し黄が副首相四人の筆頭に抜擢されたのは、上海時代から仕えた江沢民の引き立てによるのは明らかだった。

特に黄の江一族に対する面倒見の良さは有名で、江の息子たちには「黄おじさん」と慕われていたという。同じく上海市党副書記から江とともに中央政界に転じ、国家副主席に就いた曾慶紅が党や軍への工作で江を支えたのに対し、黄は江の権力基盤である上海を取り仕切って一族の利益を図った。江沢民の長男、江綿恒(一九五二年生まれ)は、現代中国の「超法規的存在」として有名だ。米国留学後、中国科学院に入り副院長を務める傍ら、多くの投資会社を経営する。会社の顧問にはブッシュ米大統領の弟も迎え、台湾プラスチックの王永慶会長の息子と上海に半導体の合弁工場を設立した。二〇〇四年、中国初の有人宇宙船「神船五号」の打ち上げでは、プロジェクトの副総指揮として中国紙のインタビューにも登場している。

次男の江綿康(一九五七年生まれ)もドイツ留学後、上海市政府に入り、都市発展情報セッター主任など開発部門の責任者を歴任した。江沢民の妻、王冶坪の一族も、上海の公安や税務当局の実権を握っている。江一族にとって上海はまさに金城湯池で、黄の地位は一族に対する利益供与と引き換えにあると言っていい。ここに上海グループという党内派閥の誕生と、その発展の秘密がある。しかし、中国最大の経済都市、上海を中心に張りめぐらされた閏閥は腐敗の温床でもある。その一端が垣間見えたのは、胡政権が発足した二〇〇三年に発覚した「上海一の富豪」、周正毅をめぐる疑惑だ。周は改革・開放で生まれた「新富人」、ニューリッチの典型である。一九六二年、上海の労働者家庭に生まれながら、留学ブームで日本に渡り、毛生え薬「101」の販売で資金を得た。上海の繁華街に妻と開いたレストランを拠点に市政府や銀行幹部の接待を重ね、築いた「関係」が株や不動産投資の成功につながる。