2014年5月2日金曜日

「強蓄積」メカニズム

中国における集権的計画経済から市場経済への転換は、たしかに「世紀の実験」というにふさわしいドラマである。この転換を、中国はどのように試みてきたのであろうか。転換の軌跡を追うことは容易ではないが、興趣のつきないテーマである。毛沢東時代の集権的計画経済のメカニズムがいかにして形成され、そして「自己破壊」していったのか。

どのような経緯を経て、計画経済のメカニズムが新しく市場経済のメカニズムへと転換していったのか。本章では、その論理を追ってみたい。論点の中核は、「蓄積メカニズム」である。第一次計画期(一九五三~五七年)以来、長きにわたり中国経済の中核に位置してきたのは、「全民所有制単位」すなわち国営の重工業部門であった。重工業化を通して貧しい農業国段階を脱し、豊かな社会主義国家をいちどきに実現することがめざされたのである。

旧中国の「半封建・半植民地」の「負」の遺産を継承し、かつ狭小な耕地に過大な人口を押しこんだいちじるしく貧困な農業国として出発した新中国が、そうした「初期条件」を顧慮することなく急速な重工業化をめざしたことは、顧みて無謀な試みであった。しかし、中国は国共内戦に淵源をもつ米中対決、一九五六年のソ連共産党大会におけるスターリン批判によってはやくも露わとなった中ソ対決という、超大国とのきびしい政治的・軍事的緊張下で建国を進めざるをえなかったのである。

往時の中国の指導者が、重工業化を通してみずからを強国たらしめぬ以上、革命の成果を守りぬくことができないと認識したのには、無理からぬものがあった。農民大衆運動を通して社会主義中国を掌中におさめ、強大な権力を一身に集めた毛沢東の純粋で空想的な社会主義観が、そうした「急進主義」を生んだもうひとつの要因であった。

国民経済の圧倒的部分を低生産性の農業が占めるという初期条件のもとにありながら、なお重工業化を急速かつ大規模に展開しようというのである。そのための資源を求むべきさきは、いかに低生産性とはいえ、農業部門以外にはなかった。