2012年9月3日月曜日

感情移入

ベートーヴェンの第九交響曲にぎきいるとき、私たちは偉人な人間が世界の根心的叫ぶと苦闘し、きずつき、やぶれ、しかもこの苦闘をとして人間が此岸をとる悲劇的な道行きと、崇高な終末とか感じる。この楽曲をとおして私たちのなかに牛の苦しみと偉大さへの憧れの感竹かよびさまされると同時に、曲そのものに悲壮尨と崇高の美がそなわっていることを私どもは感じる。第九交響曲が壮大なのはあらためてとりあげるまでもないあたりまえのことだが、考えてみればその「あたりまえ」かまことにふしぎでもある。

私どもの耳にひびくものは、絃と管と打楽器の幾種かのくみあわせでなった物理的音響であるが、この音響に、かなしさ苦しさ、よろこばしさ大きさが内在している。ことは楽曲という作曲家の心の表現されたものでなくてもかまわない。音階を上下する簡単な旋律でもかおりはなく、長調は音のなかに積極的な快活の感情をもち、短調には受身のやわらかさと悲哀がそなわっている。

富士山という円錐形の地塊が、私どもだれがながめても「気だかく」みえるのも、気づいてみればおかしなことである。この山が気だかくみえるのは、まず第一に上へ上へと高まろうとする形からくる「偉大さ」のためであるが、それには第二の条件がなければならぬ。この山に似たものがほかにはないということである。

富士山が類型的存在でなく、唯一不二のものだということである。みずからつねに高まろうとする形の山は、富士にかぎらず日本アルプスにもいくらもあるが、しかしそれがいくつもならんで類型となっているために、この諸峰は気だかさをもたぬ。富士の場合、崇高性という点には多少消極的なところもしかしあるので、肌が理想にちかくなだらかで調和的整合的にできていることは、むしろ女性的な「優美」のかたむきをもつ。

ほんとうの崇高は偉大さという内容が調和的形式をなかからやぶっていることを、どこかに破綻をみせていることを要するものであるから。それで崇高性をもって富士を表現しようとする画家たちは、事実以上に傾斜を急にし、肌にいくすじかの深いひだをあたえ、頂上の火口の凹凸を鋭角的なぞぶれ目としたのであった。私どもはこのようにまわりのものすべてに自分のなかで生まれた感情を吹きこんで先方にあたえながら、それをもともと先方に内在したものだと感じているのである。