2012年9月3日月曜日

状態的鑑賞家

したがって赤頭巾の童話をよめば、狼にむかって「にくらしい」という感情が私のなかでおこると同時に、狼そのものに「おそろしさ」という感情がなけいれられ、女の子の身の上にむかっては「パラパラ」させられる。このところをドイツの美学者フォルケルトがひいたオセロをたとえにとって説明しよう。

「オセロが恋の思慕にもえ、つぎに恋の幸福にふけり、それから嫉妬になやまされ、最後に自分の思いあやまりを洞察し、後悔と絶望のうちに死ぬ劇を私がみたときに、オセロがこれらの感情にみたされて私の面前にあらわれうるためには、私はそれらの感情のことごとくを私自身のなかからひきださなければならぬ。

オセロが私にとって無意味な仮面以上のものでありうるためには、私の意識のなかで、恋の思慕、恋の幸福、嫉妬などか生まれなければならぬのである。しかもこれらの感情は、私の意識のなかに生まれながら、それらか私にではなく、かえって向側の対象に属するという直証的確実性をともなっている。私はそれらの感情をもつ場合に、意識の私への所属性を省略する。私はそれらの感情を対象のなかになげいれて感じ、したがってこれらを『感情移入』された、向側の人物あるいは物に合体した感情としてもつ。これか『対象感情』である。

これに反し、もし私かオセロに対して驚嘆を感じ、つぎに彼のためにおそれ、彼に同情し、彼に戦慄を感じるならば、これらは私の個人の側の感情であり、しかも相手と自分との『関係感情』である。関係感情か肯定的か否定的かはすぐわかることで、私どもはその人物の方に向くか、それとも彼からそむくかである。それから最後に、もし私がこの戯曲によって圧倒され、興奮させられ、攬乱させられるならば、この感情は私の直接の自我の『状態感情』である」。

これでわかるとおり、音楽をあじわう人には二つの型があるようである。第一は、ベートーヴェンをきくときにはベートーヴェンにそなわる感情、ブラームスのときはブラームスにそなわる感情に同化して、先方の対象的性質そのままに自分をうつしいれてきく「対象的鑑賞家」である。もう一つの型は、だれの音楽をきいてもどの曲でも、自分のなかに生じたよろこびやかなしみをたのしむのを目的とする「状態的鑑賞家」で、音楽ずきとはいっても、ほんとうは曲をきいているのではなく、自分自身をきいている人々である。