2016年3月9日水曜日

法律の変化が激しかったアメリカ社会

手続や制度を変えていくといっても、それには何かきっかけがないと無理です。その意味で、裁判は現状変革の起爆剤になるものです。特に、国や大企業、それらに属するエリート層などを相手取る民事訴訟は、そういう可能性を秘めています。問題が生じて、なんだかんだと議論して、何とかしなくてはいけないからと法律が変わったり、制度が変わったりします。

そして少しずつ物事が変わってゆく。昔から法律の変化が激しかったのがアメリカです。日本は最近になってカタカタし始めましたが、アメリカは昔から何度もこういうことをくり返してきました。「訴訟社会」などという悪口かおる一方で、プラスの面に着眼すれば、ディベートがさかんで、議論の究極の姿が裁判になる、いわば裁判が利用しやすい社会だとも言えるのです。

裁判を徹底的にやる方が利害対立は明確になります。裁判で議論しているうちに争点がはっきりとしてきます。証拠をお互いに出し合っての争いですから、いい加減な水掛け論とは違います。具体的な事件を素材にして問題を考えるわけですから、抽象的な議論でもありません。

そうするうちにマスコミが注目して、これは問題だということがやっと分かって、「なんとかしなければ収まらないな」ということになります。問題の所在をはっきりさせるには、徹底的に議論するのが一番分かりやすいのです。

とくに、アメリカでは陪審制のおかげて、法廷の議論は一般の人にも分かりやすくすることが必要です。弁護士も裁判官も、陪審員に分かりやすいプレゼンテーションをするにはどうしたらいいかという観点から徹底的に訓練し、堂々と議論します。それによって問題の所在もはっきりとします。